肯定的な感情は『言葉』で伝えよう
人間は何かを失って初めて大切なことに気が付く。
私の言いたいことに関係する話なので、どうかボーカロイドという存在をよく知っている人も全く知らない人も、ボーカロイドに関する私の話に少しだけ付き合って欲しい。
2019年4月5日に、31歳という若さで急性心不全により亡くなったミュージシャンがいた。その人は、2009年頃からニコニコ動画でボーカロイドを用いた複数のオリジナル楽曲を制作しており、それらの曲が話題になり注目を集めることになった。
その人が亡くなってしまったことが報道されるや否や、Twitterアカウントや動画のコメントにはその人に対する追悼の想いや彼の遺した曲に対する感情など、無数の言葉が綴られていった。
具体的にどの程度の影響力があったかというと、Twitterのトレンドにその人の名前が入ったり、ニュースサイトで取り上げられるレベルだと言えば相当なものだとお分かり頂けるだろうか。
ここまでは全て事実を語った話だが、ここからは私の憶測が主軸となる、裏が取れていない部分を含んだ話となる。
さて、多くのユーザーが彼に対する追悼の言葉などを述べていたのは先述の通りだが、一方でその当時には、私の記憶が正しければ若干数ながらこんな言葉も飛び交っていたのだ。曰く、「本人が亡くなる前にちゃんと感想を伝えればよかった」「今まで感想を伝えたことがなかったけど、今初めて伝えます」といったものだ。
どうして、作者が亡くなって初めて、本人に届かない感想を伝える人が存在するのだろうか?
この記事は『感想をアウトプットする人全員が普段感想を伝えておらず、作者の死後に感想を伝えてばかりいる』と根拠もなく断ずるものではない。
あくまでも、『普段から様々な作品を見てはいるが、感想を作者本人に向かってアウトプットすることがほとんどない』人に向けたメッセージのような記事だ。
『感想を伝えない』ことによる最悪の影響を考える
また話が変わるが、ディベートという競技が存在する。それはざっくり言えば、2組のチームが肯定側と否定側に別れて、ある論題についてそれを肯定すべきか、否定すべきかを論じ合い第三者に自らの意見を納得させるゲームである。
そしてディベートでは、否定側の主張というのは大抵、『論題を導入したときのデメリット』を異様に大きく見せる傾向にある。たとえばこんな主張だ。
「死刑を廃止すると、被害者の遺族が精神的苦痛を被り、最悪の場合死に至る」
これと同じことを今回の話でも考えてみよう。ある所に、賛否両論分かれるような作品を公開した人がいたとする。その作品はイラストかもしれないし、音楽かもしれないし、文章かもしれない。とりあえず、肯定する人と否定する人が50:50で分かれるような作品だ。
インターネット上でそれが話題になったとする。しかしその作品に対して肯定する人々は、特に何の悪い感情を持たずにその作品を受け入れることができているから、とその作品に関するアウトプットを何も行わなかった。一方で、昨今のインターネット情勢を見ていれば明らかなように、否定的な意見というのはとても噴出しやすい。
この結果、内心の感情では賛成と反対の人が同数だったとしても、作者の目に映った感情は反対の意見が圧倒的多数だった。その後、作者は創作活動を辞め、精神的苦痛を患い、最終的には……
もちろんこの話はフィクションだ。フィクションかもしれない。我々には見えない場所で実際に起きているかもしれない。
なぜ、肯定的な感情を『言葉』でアウトプットしないのか
なにかすばらしい作品を見た時、『いいねボタン』を押すだけ押して満足していないだろうか?
あなたの胸の内に沸いたエモーショナルな感情をカタチにすることを諦めて、『いいねボタン』を押すことで妥協してしまっていないだろうか?
たしかに『いいねボタン』やそれに類するリアクションを示すことができる機能は現代の有名なWebサービスやソフトウェアに多く取り入れられているし、実際便利だ。深いことを考える必要がなく、自分の代わりに感情を相手に伝えてくれる。
だが、わたしたちは、代用すべきではない感情まで『いいねボタン』に一任してしまってはいないだろうか?
きちんと言葉でアウトプットしない理由の大半は、そういった妥協に存在するのではないか。
アウトプットするとして:感情を遮る些細な障壁ども
ここまでの話を読んだあなたが重い腰を上げて肯定的な感情を『言葉』で伝える気になったのであれば、それは筆者冥利に尽きることだ。しかしながら、あなたのアウトプットを遮ろうとする感情がまだ存在するに違いないので、それを一つずつ取っ払っていきたい。
言葉の重みは誰がそれを発したとしても存在する。その重さに違いこそあれど、言葉に重さのない者などいない。フォロワー数が1のアカウントだろうと、そのアカウントがいくつも集まり『言葉』を発すのであれば、他人を幸せにすることも、不幸にすることも容易だからだ。あなたかどんな存在であれ、『言葉』を伝える際に自己を謙遜する必要はない。